![モチイエ女子 住にまつわる楽しいコンテンツ](../../common/images/nav_top_head_1.png)
つい最近まで、女性がひとりで家をもつって
ごく少数派で、ちょっと変わってると思われていた。
マイホームをもつことは、家族の幸せと考えられていた。
いったい誰がそんなことを決めたんだろう。
女性が家をもつって、あんがいあたりまえじゃない?
そんな声が聞こえてきそうなほど、
今、ごくフツーの女子たちが、じぶんの家を買う時代になっています。
家というホームグラウンドを手に入れ、
これまで以上にパワフルに、イキイキと輝いてる「モチイエ女子」。
そんな新しい女性たちが増えれば、この国はもっともっと元気になるから。
なによりそんな未来が、素敵でおもしろそうに思うから。
私たちはこの「モチイエ女子project」を通し、
その生き方、あり!と宣言します。
モチイエ女子webにて、エッセイなど多数寄稿いただきました 雨宮まみさんがご逝去されました。心からお悔やみを申し上げます。 感謝と哀悼の意を込めまして、これまでの雨宮さんの作品、およびご出演いただいたコンテンツは、このまま掲載させていただきます。 どうか、ご愛読いただけますと幸いです。
雨宮まみの大人気連載、第2シーズンは
「女が、ひとりで暮らすこと」を考えます。
ひとり暮らしの人はもちろん、“ひとりの時間”を過ごす、
すべての女性にそっと寄り添う“暮らし”エッセイ。
最小限のものだけで生活することが流行っている。「断捨離」はすっかり一般用語として定着したし、最近のベストセラー『フランス人は10着しか服を持たない』をはじめ、『人生がときめく片づけの魔法』、『わたしのウチには、なんにもない。』などの本も、とても人気がある。
こうした本を否定する気持ちは、私にはない。好きだし、読んでいる。読むとわけのわからない力がみなぎってきて、「よし! 片付けるぞ!」とやる気が出るし、持ち物を見直す勇気がわいてくる。狭い家に住んでいると、持ち物は少ないほうが部屋を広く使えるし、掃除もしやすい。見える場所がすっきりしていると、インテリアもいい感じにしやすそうだ。
でも、これらの本が多くの人に読まれている理由は、それだけではないと思う。減らせば、持っているものを把握できて、無駄の少ない生活ができる。そのことに憧れている人が多いのではないだろうか。
私は、買いものが好きだ。金額の大小にかかわらず、気に入ったものを見つけ、考えて選び、手に入れるのが楽しい。それをどういうふうに着るか、部屋のどこに置くか、どう使うか……。そういうことを考えて、実行するのが楽しくてたまらない。模様替えをしたわけでも、何かいいことがあったわけではなくても、気分がパッと変わる感覚がある。
でも、そうやって嬉しい気持ちで買いこんできたものを、全部きちんと活かして生活しているかというと、そうでもない。使ってみていまひとつ使い勝手が良くなかったり、なんとなく部屋に合わなかったり、試着したときは良く見えたのに、普段の自分の服装に合わなくて、着る機会がなかったり……。特に、「これまでは手を出したことがなかったけれど、こういうのにも挑戦してみたい」と思って買ったもので、そうしたことが起こりやすい。
そのうち使えるときが来るかも、と、とっておく場所の余裕や、それを持っていることを忘れずに、使えそうなときにすかさず取り出せる心の余裕があればいいけれど、だいたい、ない。そしてすでにそういう「使えるときが来るかも」待機状態のものは、服でも雑貨でも、いくつもあるのだ。
そういうことを考えると、こみあげてくるのは罪悪感に似た気持ちだ。無駄なことにお金を使ってしまった、とか、一点もののすばらしい品なのに、こんな私に買われてしまってかわいそうだなぁ、申し訳ないなぁ、とか。たかが買いものに失敗しただけなのだけど、こんなことでも続くといやになってくる。お金の使い方の下手さ、ものを選ぶ目のなさ、活かすセンスのなさ、考えのなさにまで思い至っては、とてつもなくダメなことをしてしまったような気持ちになることもある。
こういう罪悪感をまったく感じずに生きていけたら、どれだけ気持ちが軽くなることだろう。シンプルな生活を求める気持ちの中には、買いもののあとの罪悪感から解放されたいというのも、確実にあると思う。
そういう気持ちを何度も味わったことがあると、ものの少ない生活は、とても知性のあるものに見える。実際、少ないもので不自由なく暮らすというのは、ものの選択眼がなければできないし、いつも物欲にそわそわと惑わされていては不可能だ。自分に必要なものを理解していて、厳選したものをきちんと手入れし、大事にして暮らしている。考えただけで「いいなぁ……」と思ってしまう。
そういう暮らしに憧れて、何度も「片づけ祭り」をやってきたし、たくさんのものを買い、処分してきた。捨てるだけじゃなく、どんどん処分の方法もこなれてきて、価値のあるもの、自分は有効に使えないけれど、品物として良いものであるほど、なるべく早く見切りをつけるようになった。これは自分のところにあっても意味がない、と感じたら、それが好きそうな人、気に入ってくれそうな人、似合いそうな人にあたりをつけて「よかったらもらってくれませんか」と聞いてみる。まだ新品同様のうちなら、喜んでもらってくれる人が見つかったりもする。気に入ってもらえたりしたら、買いものを失敗した罪悪感がふっとんでしまう。
そうして、買っては減らし、買っては減らしを繰り返した結果、わかったことは「自分に把握できるものの分量」だった。
「これ以上減らしたら、自分にとっては味気ない生活になってしまう」という最低限のライン、「これ以上増やしたら、持っていることを覚えていられない」という上限のラインが、片づけ祭りの繰り返しで見えてきたのである。
なにひとつ減らさなくても、すばらしい審美眼で選び抜かれたものを、まるでコレクションのように部屋に飾り、大事にしている人もいる。そんな生活が、もののない暮らしよりも知性がなく、貧しいものだなんて思わない。思うわけがない。けれど、私の把握できるものの量は、そこまで多くはない。買いものは好きでも、ものに対する執着は薄いのかもしれない。ひとつのものを一生使いたい、という欲望も、実はあまりない。気に入ったものを長く使うことは美しいと思うけれど、どんなに気に入ったものでも、厳選したものでも、飽きるときは飽きる。それが自分だということも知っている。じゃあ、どんどん飽きてどんどんものを入れ替えていくかというと、そうでもない。平気で同じ服を十年近く着ていたりする。
すっきりした、罪悪感のない暮らしをするための、さまざまなセオリーがあり、ヒントがある。でも、自分にはどのくらいのさじ加減がちょうどいいのかは、自分で知るしかないのだなと最近は思っている。
ライター。編集者を経てフリーのライターになり、女性としての自意識に向き合った自伝的エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を上梓、「こじらせ女子」が2013年度の新語・流行語大賞にノミネートされる。 著書に、対談集『だって、女子だもん!!』(ポット出版)、『ずっと独身でいるつもり?』(ベストセラーズ)、『女の子よ銃を取れ』(平凡社)など。
プロフィール写真=松沢寫眞事務所 / イラスト=網中いづる