![モチイエ女子 住にまつわる楽しいコンテンツ](../../common/images/nav_top_head_1.png)
つい最近まで、女性がひとりで家をもつって
ごく少数派で、ちょっと変わってると思われていた。
マイホームをもつことは、家族の幸せと考えられていた。
いったい誰がそんなことを決めたんだろう。
女性が家をもつって、あんがいあたりまえじゃない?
そんな声が聞こえてきそうなほど、
今、ごくフツーの女子たちが、じぶんの家を買う時代になっています。
家というホームグラウンドを手に入れ、
これまで以上にパワフルに、イキイキと輝いてる「モチイエ女子」。
そんな新しい女性たちが増えれば、この国はもっともっと元気になるから。
なによりそんな未来が、素敵でおもしろそうに思うから。
私たちはこの「モチイエ女子project」を通し、
その生き方、あり!と宣言します。
モチイエ女子webにて、エッセイなど多数寄稿いただきました 雨宮まみさんがご逝去されました。心からお悔やみを申し上げます。 感謝と哀悼の意を込めまして、これまでの雨宮さんの作品、およびご出演いただいたコンテンツは、このまま掲載させていただきます。 どうか、ご愛読いただけますと幸いです。
“なんとなく買ったもの”に囲まれた毎日を抜け出して、
愛着溢れる“理想のお部屋”で生きていきたい。
そんな女性に送る、雨宮まみの情けなくも前向きな
“暮らし”エッセイ。
生活に必要のないものは、「欲しいな」と思っても、わりとあきらめやすい。「これ、要るの?」「使うの?」と心に問いかけたとき、かなりのレスの速さで「別に必要じゃないですよね」「使わないんじゃないですか?」と、心の側が矢のようにシュタッと返してくるからだ。逆に、必要なものであれば、そこに疑問を差し挟む余地はないので、買うことは決定事項として、あとは何を選ぶかという問題になってくる。しかし、このどちらの例にもあてはまらず、どちらともつかないものが存在する。
それが、食器である。
食器はまぁ、使わないものではない。まったくなくては困る。最低限、お茶碗にお椀、お皿大中小、どんぶりやボウル、マグカップ、グラスなどは「必要」と言っても差し支えない。まず、この「必要」がやっかいなのだ。こだわろうと思えば、いくらでもこだわれるし、食器というのは美しいものやかわいいものが無限と言っていいほどたくさんある分野だ。
しかも、必要最小限の食器となると「毎日使うものだから、厳選したお気に入りを使いたい」なんていうことを思い始めてしまう。毎日手にするものこそ、お金をかけてもいいのではないか、という考えが頭をよぎる。
一人暮らしを始めたとき、食器にお金をかける、なんて考えはなかった。暮らしに必要なものは思いのほか多かったし、洗濯機、冷蔵庫、テレビを買ったあたりで金銭的には力尽きそうになった。それでも、安くてもかわいい食器がたくさんあった。
ひとつ800円のカフェオレボウルを、友達が同じ模様のお皿とセットで2つずつ引っ越し祝いにと買ってくれたのを覚えている。ひとつ800円だと、そんなに高い感じはしないけれど、それが「さまになる」分、ペアで、ほかの食器も同じ柄で、と揃え始めると、あっという間にけっこうな金額になるのだなぁ、と思った。
そのカフェオレボウルとお皿は、藍色の柄が入っていて、和食器にも洋食器にもなんとなく合う。おまけにカフェオレボウルというのは、サラダを入れたり、お茶碗やお椀が足りないときに代わりに使ったりもできるなかなか優秀な食器だったりして、いまだにこれはうちの中でいちばん働いている食器だ。
働き始めて、ようやく仕事が軌道に乗ってきた頃、ちょっといい食器が気になり始めた。
きっかけはよく行く喫茶店だった。そこはティーカップやコーヒーカップの名品がたくさん揃えてあり、行くたびに素敵なカップを手に取ってコーヒーを飲むことができる。こんな豊かな時間を家でも持つことができたら、とふと考えた。
それまでは「自分とは接点のない世界」だと思っていた世界に、ふと、いつでもアクセスできることに気づく。こういう瞬間がいちばん面白い。
私はコーヒーが好きなので、買うならコーヒーカップだろうと思った。誰かと飲むために二客。さぁ、どれを買うかが問題……のはずだが、すでに目星はつけてあった。喫茶店で「こういうカップを自分で持つ、ということを、しようと思えばできるんだな」と思った直後、「よし、いい食器とやらを見てみよう」と帰りにデパートに寄って、喫茶店でいいなと思っていたカップを見つけたのである。デパートというのはつくづく初心者に優しい場所だ。
それは、ウェッジウッドのプシュケというシリーズのカップ&ソーサーだった。もともと、ウェッジウッドにはフロレンティーンというターコイズブルーが美しいシリーズがあり、それも大好きだったのでかなり迷ったのだが、プシュケの淡いグリーンとかわいらしい柄が、そのときは心にぐっと来た。
来客の少ない我が家では、出番は少ない。ひとりでも、マグカップで飲んでしまうことのほうが多い。けれど、見るとやっぱり綺麗だなぁ、と思うし、手触りや重さがこんなに違うというのは、家に来てから初めて気が付いた。
使用頻度を基準に考えると、これは「無駄なもの」かもしれない。けれど、とてもそうは思えないし、使うたびにこれが家にあることが嬉しくなる。必要なわけではないが、欲しいと思うカップはほかにもたくさんある。食器棚とお金に余裕があれば「これで満足!」というところまで買ってしまいたい。
そこまで考えてハッと気づいたが、これが食器でなかったら、プシュケのペアひとつで満足なんて絶対にしていない。食器という実用品だから、あまり使っていないことがうしろめたく思えて、次に踏み出せないのだ。これがアクセサリーや服なら、平気で次のものに手を出しているはずなのだ。「身につけるものなら、人に見せびらかせるからOK、そうでないものは無駄」と考えていたのかも……と思うと、なんだか自分の考え方がわびしくて情けなく思えた。何にでもお金をかけられるわけじゃなくても、人の目を基準にするのではなく、本当に好きなもの、美しいものにまっすぐ手を伸ばせる人間でありたい。
そんなこんなで、食器のことを考えると、「別に今持っているもので足りてるんだから」から、「欲しいものをじっくり集めてはどうだろう」まで、気持ちのアップダウンの振れ幅が激しい。アップダウンに嵐のように振り回されながら激しく生きてみたい……と思うこともあるが、そんなタフネスは持ち合わせていないので、なんとかルールらしきものを作ってみることにした。
それは、「旅先で見つけた食器は、買ってもよい」というルールである。
買いのがした場合、後悔してもまた買いに行くのは難しいし、その土地の焼きものや、その土地特有の柄もある。もし使ってみて、使用頻度が低いとわかったとしても、花を活けたり小物入れにしたりもできるし、旅の思い出としては良い残り方をするように思えた。
そのルールを導入して三年ほど経った。出雲で見つけた出西窯の深い青のお皿、金沢で見つけた大好きな作家さんの花瓶、京都で見つけたレースガラスのグラスなどなど、少しずつ増えていく食器には愛着も強い。それぞれ、まったく違うものなのに、並べてみるとなんとなく合うような気がするのも不思議なところである。旅先だと、思いきりが良くなって、ごちゃごちゃ考えずに好きなものにまっすぐ手を伸ばせるのかもしれないな、と思っている。
ライター。編集者を経てフリーのライターになり、女性としての自意識に向き合った自伝的エッセイ『女子をこじらせて』(ポット出版)を上梓、「こじらせ女子」が2013年度の新語・流行語大賞にノミネートされる。 著書に、対談集『だって、女子だもん!!』(ポット出版)、『ずっと独身でいるつもり?』(ベストセラーズ)、『女の子よ銃を取れ』(平凡社)など。
プロフィール写真=松沢寫眞事務所 / イラスト=網中いづる